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「母の日」に 一番悲しい別れとは… 寂しさ


今日は母の日だ。
日頃の母の苦労を労り、
母への感謝を表す。


今日は悲しい話でもうしわけない。


たまに、母を思い出すときがある。


僕の母は心不全でアッというのに亡くなった。
享年47歳、若すぎる死だ。


当時僕は
入学したばかりの大学1年生、
大学は東京、実家は大阪だ。


親に仕送ってもらい
ちいさなアパートを借りて通学していた。
もうすぐ初めての夏休み、
帰省する予定をしていた。


携帯もない時代、電話もない。
連絡を受けたのは、
「すぐ連絡欲しい」
という電報だ。
母の実家である叔父さんからだ。


母はちょっと体調を崩したと聞いていたので
不安が過った。


住まいしているアパートは辺ぴで、
公衆の電話ボックスへいくのも
徒歩で10分以上もかかる。


すぐに出ようとすると、
いきなりの雨、
それもどしゃぶり、
傘をさしても濡れてしまうような雨だ。
けれど、とくかく電話ボックスに向かった。


後で考えてみると、
急な雨は母の涙雨だと思った。


「何かあった?」
「おかあちゃんが亡くなったよ」


一瞬目の前が真っ暗になり、
足がガクガクふるえてきて、
止まらなかったことを今も思い出す。


夕方だったので、まだ新幹線には間に合う。
すぐに帰省した。


帰省中、新幹線の中で声をぐっと抑えて
タオルで顔を隠し、涙が枯れるぐらい泣いた。


それでも涙が止まらなかった。
ほんとうなのか?
信じられない気持ち、夢なら覚めてほしいと願いながら…。


実家に着くと
顔には白い布をかぶせられた母の姿があった。


布を取ると、額に汗のようなしずく、
夏なので保護のため遺体のまわりにドライアイスが入れられていて
そのためだった。


悲しくて悲して…


僕はそれ以後亡くなった母の顔は見ないようにした。
悲しい記憶が刻まれるのが嫌だったから。


心臓発作が起こったとき、
母の実家の兄と兄嫁が救急車
を呼んで即入院させてくれた。


そしてその夜また発作が起り、
そのまま亡くなったという。



仕事が忙しいからと
母を看取らなかった父を責めた。
この時ばかりは父を憎んだ。


父はタオルを顔に当てて泣いていた。
その姿を見ると何も言えなかった。
その姿を見て、また悲しくなった。


どちらかというと母は虚弱な体質で食も細い。
よく寝こんでいたことを思い出す。


僕は一人っ子だから、
母は東京へ行くといったとき、
寂しがっていた。
僕にも原因があるのかも…。


初めて帰省する前に亡くなってしまった。
最後に見たのは、入学する前だった。


葬儀は滞りなく終わり、
また大学へ戻るときは
なんとなく後ろ髪をひかれる想いというか、
寂しい。
父がひとりになるからだ。


それ以後、夏休みは必ず実家に帰ってきた。
父の商売の手伝いをしていた。
ひとりいる父と一緒に過ごすようにした。


また東京へ戻るとき、
僕は一人で行くから
だいじょうぶだというのに、
父は荷物が大変だからと、
僕を駅まで見送ってくれるのだ。
それが嫌で、正直辛かった。


仕事が終わると誰もいない
真っ暗な家に帰る父、
真っ暗は嫌だから、
電灯をつけて家を出るんだとか…。


そういうのって、
考えるだけで悲しくなる。


今や僕も母の年齢をはるかに越え
子ども自立し、孫も生まれた。


僕はわけあってひとり暮しだけれど
自分に対しては
父を想うような寂しさはない。


自分が寂しいというより
相手が寂しくなるんじゃないかと思って、
それが寂しくなるものだ。


そしてその父も亡くなった。
母が亡くなってから、30年間という
長く元気で生きられた。


母の死より悲しかった。
母より長く親と子として過ごせた
歳月からなのだろうか…。


「孝行したいときに親は無し」
なんて言うけれど、
まさにその通りだと思う。
母に対しては早くに逝ったため
孝行ができなかったな。



みなさんもいろいろな別れを経験されてきた
と思う。


恋人と別れてしまったってある。
悲しいけれど、お相手はどこかで生きている。
この世に居るから
逢おうと思えばいつでも逢える。


亡くなったら
逢いたくても逢えないから
やっぱり悲しみの重みが違うような気がするよね。


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